[半端ない」

『半端ない』
サッカーW杯がロシアで開催中です。日本も出場して、先日は見事に初戦で勝ちました。TVの瞬間視聴率は、なんと55%だったと言いますから凄い事です。年末の紅白と同じくらい国民の関心が集まったのです。大方の予想は予選リーグ敗退でした。ところが大番狂わせになったのですから私たちにとって痛快なことです。その試合で決勝点をあげたのが大迫選手、彼のプレーの代名詞が「半端ない!」です。Tシャツも出来ている位です。高校時代の試合で敗北した相手校の主将が放った言葉で有名になったのですが、ここにきて再び「半端ない」の言葉がテレビなどで話題になっています。もしかしたら、今年の流行語にあの日大事件の「乖離」とともに「半端ない」もノミネートされるかもしれません。「半端ない」とは普通でない、常識以上という事です。聖書には「半端ない」と訳しても良いような箇所がいくつか出てきます。『この方のなさったことはみな「半端ない」』どのくらい半端ないのでしょうか。この方を頼って来たすべての病人が癒されたのです。嵐が静められたのです。死人が蘇ったのです。まさに「半端ない」です。この方を頼った人たちの中にも、他人の家の屋根に穴を空けたり、この方が足を止めるくらい叫び求めたり、木に登ったり、自分を食卓から落ちるパン屑を食べる犬に見立てたりした「半端ない」人たちが出てきます。私も「半端ない方」に「半端ない信仰」で従いたいと思います。さあ、今晩、グループ最強と言われるチームとの戦いがあります。必!「半端ない」応援(^^)V
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16 : 35 : 01 | ジョイ日記 | page top↑

和田越峠

『和田越峠』
 日本最後の内戦は西南戦争です。西郷どん率いる薩摩軍と、かつての幼馴染大久保利通らの政府軍との戦いです。実はこの西南戦争最後の激戦地がここ延岡の和田越峠でした。西郷どんは足を失った息子菊次郎を部下に託し、連れ立ってきた愛犬二匹も放って着いて来る者だけを伴って可愛岳(エノタケ)に登りそこから祝子、獅子川、日之影、高千穂方面へと抜けて行きました。西郷どんが陣頭指揮をとって戦ったのはここ和田越えの戦いと熊本城攻撃の二ケ所だったと言われています。数年前可愛岳に登って見ました、750mほどの高さですがかなりハードでした。そこから行縢や祝子が見えましたがそこを踏破することはかなり大変な事だったでしょう。これから先は私の個人的解釈です。西郷どんはこのハードな道程の最終目的地は故郷薩摩として山谷を越えて進んだのと思います。明治維新の立役者だった西郷がその政府に立ち向かったのは新政府が「武士道」の心まで失ってしまったことによる失望感もあったのでしょう。武士の心を持っていた人たちの最後の死に場所をつくるために「征韓論」を唱えたのかも知れません。それも叶わないなら自分の死に場所は故郷薩摩しかないと決めたがゆえに和田越えから薩摩に向かったのだと思います。私たちもこの世と言う世界と日々戦いながら、天つ故郷を目指しているのです。その道のりは険しいかも知れません、途中で諦めたくなることもあるでしょう。しかし、私たちは地上の故郷を目指した西郷どん以上の素晴らしい故郷を目指しているのです
08 : 59 : 24 | ジョイ日記 | page top↑

勝海舟と聖書

『勝海舟と聖書』
 前回は「西郷どん」について記しました。今回は「幕末三舟」の一人勝海舟について少し考察してみます。「幕末三舟」とはいずれも幕府方の武士です。「高橋泥舟」は神業級の槍の達人であり、徳川慶喜に信頼され、武士としての節義を備えた人物でした。次の「山岡鉄舟」は高橋の義弟であり、彼もまた剣の道では達人でありました。身長は188センチの大男でした。兄泥舟に代わって西郷隆盛と江戸城の開城交渉に臨んだのが彼でした。180センチ位と言われる最後と交渉するには適材だったかもしれません。さて、最後の「勝海舟」西郷とサシで交渉し、江戸城無血開城に導いた人物です。その後、咸臨丸(かんりんまる)で渡米し西洋の文化に接します。米国滞在中は教会に通っていたという事です。帰国し、あの新島譲の設立した同社に尽力したり、後の専修大、東洋大に設立にも協力したようです。「途也。真也。生命也」(ヨハネ14:6)「滅亡の先、人心倨傲、得栄之先、必有謙遜」箴言18:12 「義人必申信而得生」(ハバクク2:4)その他マタイ11:28・伝道者12:7などの言葉を残しています。更に彼は、まだキリスト禁教時代に寛大になるよう明治政府に働きかけています。自分の邸宅の敷地内に宣教師ホイットニーの住まいを用意し住まわせていました。海舟の娘、孝子と逸子は後に洗礼を受け、三男梅太郎はホイットニーの娘クララと結婚しました。その後夫人アンナなどの尽力で海舟邸は買い取られ赤坂病院が建てられ、そして現在は赤坂教会となっているのです。アメイジングです。
10 : 45 : 41 | ジョイ日記 | page top↑

「敬天愛人」

『南洲翁遺訓』
 昔、庄内地方と呼ばれていた現在の山形県酒井氏に「南洲神社」があります。(他、鹿児島、都城、沖永良部島にもあります)南洲とは西郷隆盛の号名です。鹿児島の次にこの「せごどん」を尊敬しているのが東北の山形なのです。その庄内藩士たちが西郷の残した教えや言葉を集めて作成されたのが「南洲翁遺訓」。これには西郷の思想や信念のようなものが集約されています。江戸の薩摩屋敷を焼き討ちにし、会津藩などと連合して官軍に立ち向い敗北した庄内藩は大きな咎めが来るものと覚悟していましたが、意に反して寛大な措置がとられました。それには西郷隆盛の強い計らいがあったのです。そのため庄内藩の人々は西郷に対して恩義とその寛大な心を尊ぶようになりました。その後は鹿児島まで赴き西郷から教えを受け、後に庄内の人達によってこの「南洲翁遺訓」が編纂されたのです。そういう訳で東北で唯一、西郷を祀る南洲神社がそこにあるのです。この「南洲翁遺訓」にあるのが「敬天愛人」です。
その意味は私的解釈ですが「万物は天(GOD )によって成っているのだから人はこれに従って生きるのである、この天を敬うことが人の目的である。天は他人も自分も平等に愛したもうから、自分を愛する心をもって、人を愛することが肝要である」これが敬天愛人の内容です。聖書を読んだ人ならきっと「あれ?JESUSの教えに似ている」と思うでしょう。西郷は聖書を読み、子弟にも読むように勧めていたのです。庄内藩に対してとった政策は「汝の敵を愛せよ」から来たのかも知れません。

10 : 07 : 31 | ジョイ日記 | page top↑

仕方がない、しょうがない。

『仕方がない、しょうがない』
 ある出来事や人物に対して「仕方がない」という時の心情にはゆるすという寛大な心、受容する心があります。一方、諦めと期待をしないという放棄する消極的心情も働きます。愛があるか無いかは「仕方がない」の後に続く言葉で判断できそうです。これは自分に対しても他者に対しても言えることだと思います。「仕方がないね、もう一度やって見よう」は赦しと期待が込められています。「仕方がないね、もういいよ」は諦めと失望が込もっている気がします。私はこの「仕方がない、しょうがない」を後者として使ってしまう事が多いことに気付きました。「仕方がない」の心で出来事や人を断ち切り、諦めている心に愛の欠如を感じています。我らのJesusは挫けない方です。燻る灯や折れ掛かった葦を「仕方がない」と諦める方ではありませんでした。この方は「失望せずに祈り続けなさい」とおっしゃった方ですから自ら私に失望せず祈って下さったのだと思います。否定的な事や消極的な事を見たり聞いたりしたとき「仕方がないね」で終わらせるのか、「いや、次を期待しているよ」で希望を持つかで生き方が変わるような気がします。「仕方がない、しょうがない」を愛の言葉としで語るよう意識しつつ、己もあの人はあの程度の人だから「仕方がない」と諦められる生き方でなく、現状に満足せず、常に前向きで期待を抱かせるような歩み方をして行きたく思います。あなたはどちらの「仕方ないね」派ですか。諦められ派か、期待され派か。
20 : 49 : 30 | ジョイ日記 | page top↑
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